江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その2】 (1/2ページ)
前回に引き続き、華やかな江戸時代の黒歴史である「飢饉」についてクローズアップします。今回は天保の飢饉についてお話ししましょう・・・。
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江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その1】 天保の飢饉天保4年は天候不順の重なった年でした。冷害、大風雨、洪水・・・。その影響で奥州から関東までが次々と凶作に見舞われ、暮れには米価が前年の2倍にも跳ね上がっていました。次の年もその次の年も凶作は続き、奥州では何万人もの餓死者が出る大飢饉になりました。
渡辺崋山(諸説あり)「荒歳流民救恤図」国立国会図書館蔵
江戸では米価がどんどん釣りあがり、飢饉前には金1両で8斗以上買えていた米が、天保8年には金1両で1斗8升しか買えないという大暴騰を起こします。前回の記事を読んでくださった方なら、「来るか!?また打ちこわし来るか!?」と思うでしょう。が、享保や天明の飢饉の時に打ちこわしに遭い痛い目を見ていた幕府や町会所が今回は先手を打ったのです。
お救い米の支給で打ちこわし回避!幕府や江戸の町会所は、米価高騰が始まった天保4年から天保8年にかけて年に数回、庶民に「お救い米」を支給したのです。
1度につき30万人以上の江戸庶民がこの「お救い米」を受け取りました。
