芸術の対象として豊かな表現で魅力的に描かれる地獄とワンパターンな天国 (2/3ページ)

心に残る家族葬

餓えた亡者が自分の脳すら喰い、それでも満たされない「餓鬼道」 、生存競争の末に人間に切られ、皮を剥がれて、焼かれて喰われる「畜生道」 、永遠に終わらない戦場「修羅道」、 極上の悦楽に満ちているが、死ぬ時は地獄の何万倍苦しむ「天道」 、そして生・病・老・苦の「人道」 とある。

この六道は現実の人間の意識・世界そのものではないか。物欲、金欲の果てに限りがないのは餓鬼と同じであるし、人間の歴史は戦争・紛争が絶えたことはない修羅道である。強者が弱者から搾取する様は畜生。目先の快楽に溺れ、いつかは来る「死」を、永遠の彼方だと思い込んでいる我々の姿は、天道にいる天人のそれであろう。

地獄草紙の一幅に、美しい天女の誘いに丘を登ったはいいが、 刀針樹(葉が刃になってる樹)に切り刻まれて無残に落下していく哀れな男の絵がある。男は死んでもまた生き返り、そしてまた同じことを繰り返す。 現実にも悪女に騙されて奈落の底に落ち、 懲りもせずまだ同じような女に騙される話はよく聞くもので、可笑しくも悲しい光景であった。地獄は現実に存在する。そして仏教はこの果てしない欲の円環から逃れるために、一切の執着を捨て「解脱」しろと説くのである。

■魅力的な地獄 貧相な極楽・天国

こうした地獄絵に比して古今東西、極楽・天国絵の描写は不思議とワンパターンというか劇的なものは少ない。金銀宝石に彩られ、天人が楽を奏でる。善男善女しかいない世界の中心には神様仏様がいる。大体こういった構図で一致していて、奇をてらうことはなく、地獄の多彩なバリエーションに比べて貧相とも言えるくらいだ。

「神曲」天国編は天動説に依拠した抽象的な神学的世界が展開されているが、宗教思想書としてはともかく文学作品としての魅力には欠ける。「神曲」といえば、ほとんどの人がケルベロスやケンタウロスのような濃いキャラクターを思い浮かべるだろう。

刺激の無い平和な世界は創作意欲とは対極である。芸術家には「鬼」が住むという。幻視したこの世ならざる世界を表現するために、「鬼」は筆を叩きつけ、石を打ち、ペンを奮う。芥川龍之介の「地獄変」は、火あぶりにされる娘の断末魔を目の前に地獄絵を描く絵師の話であった。鬼が書くのだから極楽は苦手に決まっている。

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