芸術の対象として豊かな表現で魅力的に描かれる地獄とワンパターンな天国

心に残る家族葬

芸術の対象として豊かな表現で魅力的に描かれる地獄とワンパターンな天国

平安時代の末から鎌倉時代にかけ、地獄絵、六道絵などと言われるものが流行した。仏教の教えが滅亡する終末論=末法思想による厭世観が大きかったと思われるが、そこに表現されるあまたの地獄絵は芸術としての価値が非常に高い。地獄絵は魅力に満ちている。地獄絵は世界中にみられる。そのいずれも対極にある極楽・天国のそれに比べて表現が緻密で豊かである。なぜ人は地獄に惹かれるのか。

■地獄の仕組み

源信(942~1017)の「往生要集」によると、地獄にはいくつかの階層がある。身体をバラバラに切り刻まれては生き返り、また繰り返される「等活地獄」、阿鼻叫喚の語源となった「阿鼻地獄」など、下の層に行くほど罪が重くなる様子が精密に描かれている。12世紀の絵巻物「地獄草子」をはじめ、現存する地獄絵には、こうした地獄の光景が鬼気迫る迫力で我々に暗くも激しい情念をぶつけてくる。

ダンテ(1265~1321)の「神曲」地獄編で描かれている地獄も似た構造である。第1層から9層まであり、下層になるほど罪が重くなるのも同じで、閻魔大王に相当する裁判官・ミーノス、魔王プルート、地獄の番犬ケルベロスなどは有名だ。最下層のコキュ―トスにはその昔天界から追放された堕天使ルシファー(サタン)が封じられており、イエス=キリストを売ったユダ、カエサルを裏切ったブルータスらが、ルシファーに責苦を負わされている。いずれも地獄の悪鬼・獄卒どもに拷問される亡者の表情は苦痛と悲哀に満ちており、科学の発達していない時代においては、さぞ恐怖であったろうと思う。この想像力はどこから来たものか。

■現実の地獄

元々仏教における地獄とは「六道」のひとつである。地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天の六つの世界であるが、人間の魂はこの六道のどこかに生まれ変わるという。これを「六道輪廻」と呼ぶ。この六道を描いた絵画が「六道絵」で、地獄絵はそのひとつをフォーカスしたものである。六道の中でも地獄の惨状は凄まじいが、地獄以外の五道も苦痛に満ちている。 餓えた亡者が自分の脳すら喰い、それでも満たされない「餓鬼道」 、生存競争の末に人間に切られ、皮を剥がれて、焼かれて喰われる「畜生道」 、永遠に終わらない戦場「修羅道」、 極上の悦楽に満ちているが、死ぬ時は地獄の何万倍苦しむ「天道」 、そして生・病・老・苦の「人道」 とある。

この六道は現実の人間の意識・世界そのものではないか。物欲、金欲の果てに限りがないのは餓鬼と同じであるし、人間の歴史は戦争・紛争が絶えたことはない修羅道である。強者が弱者から搾取する様は畜生。目先の快楽に溺れ、いつかは来る「死」を、永遠の彼方だと思い込んでいる我々の姿は、天道にいる天人のそれであろう。

地獄草紙の一幅に、美しい天女の誘いに丘を登ったはいいが、 刀針樹(葉が刃になってる樹)に切り刻まれて無残に落下していく哀れな男の絵がある。男は死んでもまた生き返り、そしてまた同じことを繰り返す。 現実にも悪女に騙されて奈落の底に落ち、 懲りもせずまだ同じような女に騙される話はよく聞くもので、可笑しくも悲しい光景であった。地獄は現実に存在する。そして仏教はこの果てしない欲の円環から逃れるために、一切の執着を捨て「解脱」しろと説くのである。

■魅力的な地獄 貧相な極楽・天国

こうした地獄絵に比して古今東西、極楽・天国絵の描写は不思議とワンパターンというか劇的なものは少ない。金銀宝石に彩られ、天人が楽を奏でる。善男善女しかいない世界の中心には神様仏様がいる。大体こういった構図で一致していて、奇をてらうことはなく、地獄の多彩なバリエーションに比べて貧相とも言えるくらいだ。

「神曲」天国編は天動説に依拠した抽象的な神学的世界が展開されているが、宗教思想書としてはともかく文学作品としての魅力には欠ける。「神曲」といえば、ほとんどの人がケルベロスやケンタウロスのような濃いキャラクターを思い浮かべるだろう。

刺激の無い平和な世界は創作意欲とは対極である。芸術家には「鬼」が住むという。幻視したこの世ならざる世界を表現するために、「鬼」は筆を叩きつけ、石を打ち、ペンを奮う。芥川龍之介の「地獄変」は、火あぶりにされる娘の断末魔を目の前に地獄絵を描く絵師の話であった。鬼が書くのだから極楽は苦手に決まっている。まさに人間は地獄の方が近い。

■堕落の誘惑、自然な墜落

源信もダンテも万有引力の存在は知らなかった。しかし地獄は堕落・墜落する場であり、天国・極楽は遥か上空・天上にあると想定されている。引力は知らずとも、物は下に落ちるのが道理である。天に唾を吐けば返ってくる。落ちるは容易く上がるのは難しい。倫理・道徳もそうである。善行が神=天国・極楽なら悪行は地獄である。落下する方が、地獄に堕ちる方が簡単なのはこれまた道理だ。故に人間は容易く罪を犯す。落ちる方が楽ではある、それでもほとんどの常識的な人間は落ちないように努力する。欲を抑制し、誘惑に耐え、天を目指す(善行を行う)という困難極まりない道を歩く。人間とは神と動物の間をたゆたう存在だとするパスカル(1623~62)の言葉は的確である。

その意味で、地獄絵が精妙でリアルなのは当然のことである。我々は地獄の方が近いのだし、常に垣間見えているのだから。いわゆる快楽に身を浸し極楽極楽と悦に浸ることはある。名誉を得て幸福を感じることもあるだろう。しかし結局それは、自分の欲を満たす「快楽」である。先述したように欲や執着から解き放たれた真の極楽ではなく、六道のひとつの天道にいるにすぎない。極楽・天国は我々のような欲深き衆生には遠すぎるのだ。


■この地獄の片隅で

絶対的な安心・平穏に満ちた極楽・天国絵を見ても精々が綺麗な花を愛でる程度である。しかし、 地獄絵には苦しみ、悲しみ、怒り・・ どうしようもないこの現実、人生への憤り、慟哭が伝わる。

恐山の賽の河原で、子を失くした親が、子のために石を積むのは極楽に比べ、地獄がリアルだからではないだろうか。なぜ子が極楽浄土で安心平穏に暮らしていると思えないのか。我々は、現実の苦しみ、悲しみを通じて地獄に抱いているからではないか。

人は地獄を知っている。地獄の片隅で生きている。それでも人は天を仰ぎ見る。いつかの未来、地獄絵に劣らぬリアルな極楽絵、天国絵が描かれる時が来ると信じたい。

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