田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(上) (1/3ページ)

週刊実話

 人の人格は、「三つ子の魂、百まで」との俚諺もあるように、おおむね幼少期に出来上がるとされている。とくに、男子の場合は母親の生き様、すなわち「うしろ姿」を見る中で、大きな影響を受けるようだ。「うしろ姿」の受け取り方で、人生が左右されることが少なくないのである。

 もとより、血を分けた子であるから、父親のDNAも引くことは言うまでもない。なるほど、田中角栄は父親の生き様から、競馬好き、錦鯉に興味を示し、“ヤマっ気”また多く、そのDNAを引いたものと思われる。

 一方、田中は、母親をどう見ていたのか。「日の出の勢い」と言われた自民党幹事長の時代に、こう述懐したことがある。
「あの日の母の言葉を絶対に忘れないで、ここまで来ることができた。母あっての私だったと思っている」

 ここで言う「あの日の母の言葉」とは、田中が15歳で青雲の志を抱き、新潟から上京する際の言葉を指している。母は、夫である角次の“つまずき”を諭すかのように、まず「大酒は飲むな。馬は持つな。できもせぬ大きなことは言うな」とクギを刺し、次のような三つの言葉を言い含めたのだった。

 「いいか、人間には休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかなら、働いてから休むほうがいい。また、悪いことをしなければ住めないようになったら、早くこっちに帰ってくることだ。そして、カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人のことは絶対に忘れてはならない」

 後年、馬を持ち、時には大きなことも言った田中だったが、大酒を飲んでわれを忘れることはなかった。三つの言葉は、社会の荒波を乗り切るための最低限の知恵を、母が教えたということだったのである。

 田中の中には、幼少の頃の母の生き様が、常に頭にこびりついていた。父・角次は牛馬商の傍ら養鯉業にも手を出したりしたが、いずれもうまくいかず、次に競走馬を2、3頭連れての地方競馬の“賞金稼ぎ”に転じたが、これもしくじり続きであった。生活が立ち行かぬ中、母が一町歩弱の田んぼを、一人、懸命に耕すことで、かろうじて田中家を支えていた。

 田中は、こうも言っていた。
「私が子供の頃、夜、目を覚まして手洗いに行くと、母はいつも何か仕事をしていた。

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