田中角栄「怒涛の戦後史」(2)母・田中フメ(上) (2/3ページ)
お母さんは一体、いつ寝るのだろうかと不思議に思ったくらいだ。また、絶対に愚痴を言わない人でもあった。子供にも、仕事を手伝えとは決して言わず、こちらが自分から手伝うまでは、一人、黙々と働いていた」
無言の母の「うしろ姿」は、感受性の人一倍強かった角栄少年には、強烈な“説得力”があったと思われる。
★「越後線の駅員にでも…」
母・田中フメは、生まれたとき、「ヒメ」と名付けられた。ところが、村役場が間違えて「フメ」となった。後年、フメは「フメでよかった。いつも田んぼで泥だらけになっているヒメはおらんからなぁ」と苦笑していたものだ。このフメを悪く言う人は、角次への陰口はあっても、誰一人いなかったのだった。
こんなエピソードがある。
田中が二田尋常高等小学校に入学して間もない頃、ある日、フメが田中に「アニ(田中のこと)はおじいさんの財布からおカネを取らなかったか」と問いただし、さらに「もし悪いことをしたのなら、お母さんはおまえと一緒に鉄道の線路の上で死にます」とも言ったのだった。
田中は何のことか分からなかったが、祖父の財布からは取らなかったものの、茶だんすの上に50銭玉が二つ、むき出しで置かれていたのをいいことに、このカネでミカンを一箱買い、近所の友だちにふるまったことを思い出した。
それを白状すると、祖父はニコニコ笑って、「おまえならいい」と言っていたが、田中はのちにこの時の母の気持ちを、自著でこう臆測している。
「母は他家に嫁してきて、自分の生んだ長男がウソを言ったり、人の物をかすめたりするようなら、母として死ぬほかはないという気持ちだったと思われる。無口な人だが、私にとっては誰よりも恐い人であった」(『私の履歴書』日本経済新聞社)
ここでの「恐い人」は、もとより畏敬の念が含まれていることがうかがえる。
田中がのちの昭和22(1947)年の総選挙で、代議士として初当選した直後、フメは新潟の地元記者にこう聞かれたことがある。
「代議士になられたが、それまでお母さんは、せがれさんを何にしたかったのですか」
フメは、こう答えたのだった。