そこまで過酷ではなかった?徳川家康のあまり知られていない人質時代を紹介 (2/3ページ)
この混乱の中、従う兵も少ない広忠は海道一の弓取りと呼ばれていた今川義元を頼ります。しかし、義元の力を借りるにはそれ相応の対価も必要だったこともあり、広忠は竹千代を人質にすることで力を借りることができました。
織田、今川と転々とした竹千代天文16年(1547)、6歳の竹千代は今川家へ人質に行く予定でしたが、竹千代を護送していた戸田康光が裏切り信秀の元へ行ってしまいます。康光が裏切ったので竹千代は織田家の人質となってしまいます。
このことに怒った義元は信秀を攻め続けます。そして、天文18年(1549)に安祥城を攻略すると城主であった信長の兄、織田信広を捕虜として拘束します。
落合芳幾画作:今川治部大輔義元/Wikipediaより
義元と信秀は信広と竹千代を交換したことにより、今川の元へ竹千代は人質へ行きます。織田家の元には2年間人質として過ごしており、この間に信長と面識があったのではないかとされています。
そして、父の広忠は同年に亡くなっており、松平家は竹千代が人質になっているので当主不在のまま存続することになります。
竹千代の人質生活竹千代は今川家で永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで敗北し、19歳で独立するまでの11年の間いました。この間の生活は本当に人質と疑う程、何不自由なく過ごしていました。
尚且つ、竹千代の祖母、華陽院(けよういん)が養育にあたり書道や礼儀作法を教えました。また、義元の軍師であり僧侶、太源雪斎(たいげんせっさい)にも教えを受けており、竹千代に軍略の何たるかを教えたとされています。