「ホッケとバイスサワー」《新井見枝香コラム・本能めし6》

日刊大衆

 酒量が増えている。もともと酒の味は好きだが、家で飲むようになったのは、先月新居に越してからだ。きっかけは、近所のスーパーで特売されていた《とってもすっぱいレモンのお酒レモンホリック》である。育ちが生粋のビジュアル系なもので、全身黒ずくめの缶には、つい手が伸びてしまう。「とってもすっぱい」は本当で、飲めば頬の奧がキューッと痛むのだが、飴と鞭のように甘みがやってきて、毎晩2本飲まないと気が済まないほどクセになってしまった。

 そんな折、転職先から健康診断結果の提出をせまられ、慌てて予約を入れた。医師からは、日々の食事、運動、睡眠時間などについて質問を受け、ついでのように聞かれた「お酒はどうですか?」には、なぜか「ほとんど飲みません」と嘘を吐く。その後の心電図検査で、やや問題ありのB判定をくらったのは、そのせいとしか思えない。私の肝臓はA判定で、毎日2本飲んだって叱られることはないだろう。アルコールに依存しているのではなく、レモン味にはまっているだけなのだ。レモンなんてむしろ健康的ですらある。転職して1か月、新社会人でもないのに「5月病の可能性あり」なんて会社に報告されるのが嫌だったのか。私は酒を飲んでいるが、心が疲れているわけではない。ここ10年で、最も公私ともに安らかに生きている。

 さあ今夜もスーパーであれを買って帰ろう。私は依存していないから、箱買いはしない。その日のお酒はその日のうちに飲み切る派だ。3本買えば3本飲むだろうが、そこで2本しか買わない理性を評価してほしい。

 しかし近所のスーパーよ、そういう冗談はやめてくれないか。あんなにどーんと展開していたレモンのお酒が、昨日の今日で、一本も見当たらないのである。嘘、嘘、酒売場を壊れたおもちゃのように徘徊する私。元あった場所には、新製品のほろ酔い系チューハイが積まれている。こんなチャラチャラしたやつじゃない!2番目に好きな《本搾りチューハイ レモン》も、札はあるのに売り切れている!

 一切の気力をなくした私は、カゴに入れていた豚肉やサバ缶をとぼとぼ戻し、スーパーを後にした。しかし、買い置きのない家には帰りたくない。すると、いつもは素通りしていた食堂が目に入った。確かここは、同じ駅に住んでいる某版元の営業さんが「ひとりでも飲める」と言っていた店だ。壁という壁に手書きのメニューがビタビタ貼られ、おしゃれ度はゼロであるが、このしょぼくれた気分にはぴったり。サラリーマンのおじさんふたりが、年下の上司への鬱憤をデロデロと垂れ流している。どうせ面と向かっては言えないんだ。気が済むまで吐き出してしまえ。

 メニューを見ると、なんとも魅力的な響きの酒があった。《バイスサワー》。この奈落の底のような食堂で、あの黒ずくめ缶より遙かに強く、ビジュアル系オーラを放っている。VICEサワー、悪徳の酒、邪悪な酒。しかもここなら、部屋が魚臭くならずに、焼きたてのホッケが出てくる。口は臭くなるが、塩らっきょうもある。

 こりゃバイスでゴートゥーヴァイスだな!

 私は今、すごくうまいことを言ったのだが、このネタ、90年代にビジュアル系を愛していた人にしか伝わらない。当時人気のあった某バンド「R」の曲に、そういう歌詞があるのだ。

 ちなみにバイスサワーの「バイス」は「梅酢」という意味であり、ビジュアル系とは何の関係もない、しそ風味である。

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