歴代総理の胆力「西園寺公望」(1)総理退陣後に「キングメーカー」として力を発揮 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「西園寺公望」(1)総理退陣後に「キングメーカー」として力を発揮

 現今の企業のトップリーダーなどにも、こうしたタイプがいる。周囲はその識見には一目置いているが、存在感に比して社長在任中の実績はとなると、これはといったものが見当たらないのである。しかも、トップリーダーの座を降りても、業界への影響力なお衰えずといった掴みどころのない人物である。

「最後の元老」「日本初の公家総理」として、総理退陣後は大正・昭和初期を通じて次々と内閣を送り出す影響力を持ち続けた西園寺公望が、この手のリーダー像に入る。

 西園寺は当時の政界では「異質」と言えた。若い頃、福沢諭吉の著書「西洋事情」に触発され、10年にわたるフランス留学体験をしたことの影響が大きかった。「日本初の大学卒業総理」として、ソルボンヌ大学を卒業した。のちに首相となるクレマンソーや音楽家のリストら文化人と交流、ここでリベラリズム(自由主義)を身につけ、これが生き方、のちの一貫した政治信条になっている。

 フランスから帰国後は、自由民権思想で知られる「東洋のルソー」とされた中江兆民とともに「東洋自由新聞」を発行する、「華族が新聞などに関わるのは好ましくない」との周囲の忠告を、「その考え方はおかしい」とハネつけてのそれだった。リベラリズムに基づく、「進取の精神」が横溢していたことが知れるのである。

 政界入りは、伊藤博文と憲法調査で渡欧したことを機に、親しくなったことからだった。ともに“気配り体質”で、ウマが合ったのである。その後、伊藤が立憲政友会を組織、やがて枢密院議長に就任すると、西園寺が伊藤に代わって政友会総裁となったことで、桂太郎の後を受けて内閣を率いることになる。しかし、政友会総裁も内閣総理大臣も、ともに西園寺本人はさほど興味はなかったようだ。ためか、第一次、第二次内閣とも、見るべき成果は残していない。

 西園寺内閣の課題は、日露戦争後の新しい国家経営ということだったが、戦費のツケとしての財政再建は果たせなかった。また、第二次内閣でも陸軍の二個師団増設問題でイヤ気が差し、ここでは1年4カ月で内閣総辞職をしてしまっている。この間、桂太郎と交互に内閣を組織するという、言うなら“持ち回り”の「桂園内閣」で凌いだが、何をやろうとしたのか見えぬままに終始した。

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