歴代総理の胆力「山本権兵衛」(1)一目置かれる高潔な人物 (2/2ページ)

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できるだけ冷静に構え、ペラペラ喋って足元を見られることは避けなければならない」

 この山本の言葉はあるとき部下の海軍大将に聞かせたときのそれで、自ら律していたように、難問に直面した時に取るべき心得を諭したものだった。

 その山本の総理大臣就任は「閥族の打破」を掲げた憲政擁護運動の混乱で倒れた第三次桂(太郎)内閣のあとを受けてであった。

 その頃の陸軍出身者は長州に比べて“閥色”はそれほどでもなかったが、世論が閥族視していたことにより、内閣のスタートはハンデ付きであった。しかし、豪胆にして細心、山本は臆することなく、剛腕ぶりを発揮するのである。

 それまでの陸海軍大臣を現役の大将、中将とするとした規定を外す一方、文官任用令の改正で軍の政治関与に制限をかけた。また、大幅な官庁の整理と共に、一万人に及ぶ官吏を削減するといった今日の「行政改革」のさきがけを見せつけたのだった。

 ところが、山本内閣はこうした成果の一方で、とんだスキャンダルに見舞われ、わずか1年余で第一次内閣の総辞職を余儀なくされるのだった。「シーメンス事件」の直撃を受けたのである。

 この事件はドイツのシーメンス・ウント・ハルスケ会社が、日本の海軍から装備品の注文を取るため海軍高官にワイロを送ったことが発覚したことに端を発したものだった。これは海軍全体を揺るがす構造汚職に発展、ために予算案自体も不成立を余儀なくされての総辞職ということだった。「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂)が言論を駆使、山本を追い詰めた結果であった。

■山本権兵衛の略歴

嘉永5年(1852)10月15日、薩摩(鹿児島県)加治屋町(かじやちょう)生まれ。山県、伊藤、桂内閣で海相。海軍大将を経て、第一次、第二次内閣を組織したが、ともに、シーメンス事件、虎ノ門事件により総辞職。総理就任時60歳。昭和8年(1933)12月8日、81歳で死去。

総理大臣歴:第16代1913年2月20日~1914年4月16日、第22代1923年9月2日~1924年1月7日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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