歴代総理の胆力「寺内正毅」(2)日本初の生活保護政策導入 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「寺内正毅」(2)日本初の生活保護政策導入

 一方、寺内の素顔は、若い頃は戊辰戦争、箱館・五稜郭の戦いに従軍、近衛第一連隊中隊長として従軍した西南戦争で田原坂(たばるざか)の激戦で右上腕部、右鎖骨に銃弾を受け、以後、右腕の自由を失うなど、勇猛果敢な人物であった。

 しかし、こうして軍人として大を成した人物だけに、コワモテにして尊大な印象は与えたが、実は細かいことに気がつく情の厚い人物であった。なるほど、軍事は大胆かつ緻密な作戦を要諦とするところから、軍人としてははまり役だったと言えそうだ。

 寺内は部下が負傷して入院すれば何度も見舞い、時には入院費をたて替えてやっていたなどの部下思いの中で、戦死者遺族や傷病兵を対象とする「軍事救護法」を制定している。この法律は、日本で最初の本格的な生活保護政策だったとも言われている。

 また、部下に対しては公務の執行など厳格極まるものであったが、一方で部下が法律の草案などをつくってくると、気に入らなくても一蹴することは決してなく、自ら手を入れてそれを生かす術も知っていたのだった。総理大臣としての実績、リーダーシップは採点すれば低いが、なかなか人間味に溢れていた人物だったことがわかる。

 あるいは、陸軍士官学校の校長時代には、毎年入学してくる200人ほどの生徒の顔と名前を、たった1カ月ですべて覚えてしまったというエピソードもある。すこぶる記憶力のいい人物としても知られていたのである。

 晩年は総理在任中、悪化させた糖尿病がさらに悪化、やがて心臓にも異状をきたした。大の愛煙家で、繰り返し禁煙もやったが、タバコもその一因だったとされている。

 しかし、一方で神奈川県の大磯で静養生活を送る中、使用済みの封筒を裏返して書の手習いをやったり、「仏像、刀剣など骨董をたのしむ一方、万葉集、古今和歌集を読み、自らも短歌、漢詩、俳句を詠んだ」(『元帥寺内伯爵伝』黒田甲子郎編・大空社)とある。なおこうした仏像、刀剣などの貴重な文化財が朝鮮半島から流出するのを防ぐための文化保護施策も行った。ここでは、趣味人の一方で単なるコワモテの軍人ではなかったことが明らかになる。

 寺内は大正8(1919)年11月3日、67歳で死去したが、その死はわが総理大臣史の大きな区切りとなっている。

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