古代マヤ文明の滅亡は戦争が原因ではなかった?破壊的な戦闘行為が長く繰り返されていた可能性(米研究) (4/5ページ)
さらにウォール氏らは、ウィッツナに隣接する湖の堆積物から、大規模な火災があったことを示す3cmの炭の層を発見した。
これは1700年分の堆積物の中でもっとも厚く、この炭の層の炭素年代測定を行ったところ火災は7世紀の最後の10年の間に起こっていることが判明。ナランホの石碑の内容を裏づけていることが分かった。
・徹底的に破壊された建築物が大規模な戦争体験を物語る
王宮や象形文字の刻まれた碑など、ウィッツナのおもな建築物が徹底的に破壊されていたことは、この場所が大規模な戦争を経験したという説を裏づけている。
ウォール氏らは、7世紀が終わるまでの湖の堆積物が、農業の痕跡や燃えた名残など、人間の多くの活動の跡を示していることも発見した。
しかし、これらの痕跡は攻撃されたと推測されている時期の後では激減している。ウィッツナで見られる破壊の跡は古典期の終わりに見られたものを思い出させるが、違いもある。
これについてウォール氏は、
古典期の終わりには王族は殺されるか追放されたが、攻撃の後もその血は残って続いていた可能性がある。しかしウィッツナでは、古典期末期に見られるように、町は完全に消し去られてしまった
とコメントしている。
・苛烈な戦争が長く続いていたのかもしれないマヤ文明社会
「バラム・ホル」が焼かれたことを表現するのに使われた「puluuy」というシンボルは、別のマヤの都市でも見られたことがある。
これは、町を徹底的に焼き払うこうした行為は、古代マヤの戦争では普通のことだったことを示している。
全体として見ると、こうした発見は古代マヤの繁栄や高度な芸術性がピークに達していたときでさえ、すでにこのような破壊的な総力戦が行われていたことを示していて、これがマヤ文明の衰退の日々において特異なことだったとする説に異を唱えている。