「自己」がAIに置き換わる時代の文学とは? 作家・片山恭一が考える「AIがもたらす人類の未来」(後編) (4/5ページ)
となると、これからは僕の言葉で言うと「自己の手前」、自分の生まれる前や死んだ後をどう物語化するのかが問われると思うんです。生まれ変わったり、異世界に転生するアニメやライトノベルが話題になっていますが、今後はそのテーマが本格的に文学として書かれないといけません。ドストエフスキーや夏目漱石のような作家が登場して、「自己の手前」を本格的に書いたとき、文学は変わるようになります。
それを僕が書ければいいんだけど、どうも賞味期限が尽きそうで(笑)。だから、その方向性だけは提示しておきたいなと。今、提示しておかないと、もう少し時間が経つとそうした問題意識すら芽生えなくなるのではないかと思うんです。それが一つ形になったのがこの『世界の中心でAIをさけぶ』です。

片山:いないと思います。ただ、手がかりとして宮沢賢治はそういうものを童話で表現しようとした人だったのではないかと思います。僕が一番気になる作家は宮沢賢治で、彼の中には汲み尽くされていないものがたくさんあると感じます。
人間の面白さは、言葉や感性がすごく先に行くことにあります。宮沢賢治は恐竜の化石みたいなものに「わたくしの遠いともだちよ」と平気で言う人ですから、とても新しい感性を持ちながら、古代的な感受性の強かった人なのでしょう。だから、現代の文脈においても新しいものとして読むことができる。
科学は順序を追って発達するものです。あるものがベースとなり、それが発展するという形ですよね。でも、人間の精神を表現する言葉の世界は、平気で数万年の時間を行き来できる。それは数万年前の人間の感覚が、今を生きる僕たちの中にもあるからじゃないかと思うんです。