歴代総理の胆力「浜口雄幸」(1)厳めしい風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「浜口雄幸」(1)厳めしい風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた

 高橋是清が内閣改造で行き詰まり政権を投げ出したあと、政権は加藤友三郎(かとうともさぶろう)、清浦奎吾(きようらけいご)、加藤高明(かとうたかあき)、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、田中義一(たなかぎいち)が次々と担った。

 加藤(友)は「不戦海軍」出身で、軍縮で成果を上げるなど抜群の見識と勇気を示したが、惜しむらく総理在任中に病死した。清浦は、元老・山県有朋の腹心で、政党政治の流れに対抗した。司法畑の官僚としては優秀だったが、総理としてはいかにも情熱が不足していた。一方、加藤(高)は、政友会に対峙する憲政会から初めて出た総理だった。外交官から政界に転じ、大向こうをうならせることはなかったが、護憲派として日ソ国交回復、普通選挙法実施、治安維持法改正、軍縮などで実績を上げた。リーダーシップはなかなかのものがあった。

 若槻は、加藤(高)の急死を受けての総理だったが金融恐慌の荒波を受けて内閣を投げ出している。のちの太平洋戦争開戦前の御前会議で時の東条英機(とうじょうひでき)総理を徹底的に批判したことでも知られている。また、田中は、「おらが総理」と呼ばれ、大衆人気は高かったが、思想弾圧、大陸への積極政策をとり、政党政治からファッショ体制への曲がり角にも立った総理でもあった。

 こうした大正デモクラシーの終焉、昭和初期の経済大恐慌を前に登場したのが、その厳めしい風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた浜口雄幸であった。根回しに頼らず、己の信念に突き進んだことではこの浜口に負けず劣らずだったのちの総理・小泉純一郎が風貌ともども浜口に擬せられた形で、「ライオン総理」の異名があったのは記憶に新しいところである。

 また、浜口は人物高潔、謹厳居士で、国民に緊縮財政を甘受させることから、政治家、官僚にも痛みを分け合うことを要求した。総理になってすぐ、官邸、官庁の自動車を大幅削減、官僚の給料減額を断行したということである。“大臣病”議員諸君!「自動車に乗りたくば運転手になるがいい。官邸に住みたければ小使に雇わるるがいいのではないか」の弁は、大正13(1924)年、自らが総理大臣になる5年ほど前、あまりに大臣病患者が多いことにアキレての一言ということだった。

「歴代総理の胆力「浜口雄幸」(1)厳めしい風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた」のページです。デイリーニュースオンラインは、浜口雄幸週刊アサヒ芸能 2019年 9/12号内閣総理大臣小林吉弥小泉純一郎社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
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