田中角栄「怒涛の戦後史」(9)恩師・草間道之輔(下) (2/3ページ)

週刊実話



 こうした絶望的な候補を傍らに、演説会場の草間はそれでも目いっぱいの応援弁士ぶりで、聴衆にこう訴えかけた。

「この田中君は成績すこぶる優秀のうえ、誰よりも親孝行であった。吃音に苦しんでおるが、必ずや皆さんのお役に立てる人物であることを、私が保証します」

 しかし、このときの8議席を争う大選挙区制〈新潟2区〉の選挙結果は37人中11位で、最下位当選者まで7000票ほど届かずの落選。時に地元新聞は、「田中候補は健闘したものの農民層へ食い込めなかった」と書いたのだった。

★報いた「人材確保法」の制定

 落選はしたが、いささかの手応えを感じた田中は、折から翌22年4月に衆院が解散、総選挙となったのを機に、再び出馬した。このときから選挙区制が変わって中選挙区制となり、田中のそれは〈新潟3区〉(定数5)となった。

「選挙戦の戦法は、第1回目とはまったく変わった。企業など組織を固める一方、弱点とされた農民層の支持獲得に全力投球した。一軒一軒、とくに山間部の農家を回り、これからの農業のあり方を説いていった。演説も『これからの日本は、家族が中心でいかなくてはならん』などとかなりまともになり、地元民から受け入れられるようになった。草間先生は、ここでも田中の支援に回っていたが、草間先生がいることで、田中にはハクがついたと言えた」(田中の後援組織「越山会」の古老幹部の証言)

 この2回目には民主党から出馬し、田中は12人中3位で、晴れて衆院議員としてのバッジを着けることになったのである。

 振り返れば、田中は二田尋常高等小学校時代、この草間からその後の人生を決定付ける「指針」を植えつけられていた。

「人間の脳は、多くのモーターの集まりである。10個か15個回せば生きていけるが、努力すれば何千個も動かせるようになる。そのためには勉強することだ。暗記することだ。これしかない。われわれだってモーターをたくさん回せば、野口英世になれるんだ」

「人間の頭脳は、無数の印画紙の倉庫になっている。強く感じれば、印画紙は強く感光する。弱ければ、映像もあいまいになってしまう。
「田中角栄「怒涛の戦後史」(9)恩師・草間道之輔(下)」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る