田中角栄「怒涛の戦後史」(9)恩師・草間道之輔(下) (1/3ページ)

週刊実話

 田中角栄が「私の人生には三人の先生がいた」と公言してやまなかったそのうちの一人、田中の母校である新潟の二田尋常高等小学校の元校長・草間道之輔は、演説する田中のそばにいて、内心「これではとても当選はかなわない」とガックリしていた。

 昭和21(1946)年4月、田中は戦後第1回の総選挙に満27歳で初出馬した。しかし、地元では東京で一山当てた「成金」程度の見方しかなく、県下の教育界に影響力のあった人格者の草間に三拝九拝の揚げ句、応援を願ったものだった。

 なにしろ戦後すぐのことゆえ、他候補はヨレヨレの国民服姿で演壇に立つのだが、カネのある田中のみはモーニングに威儀を正した異色ぶり。だが、威勢のいいのは「若き血の叫び」という演題だけで、その中身は惨憺たるものだった。

 このちょびヒゲをたくわえた進歩党の新人候補は、「に、に、日本進歩党公認の田中角栄であります!」とドモリ気味に口を切ったところまではよかったが、満員の聴衆を前にあとの言葉が出てこないのである。緊張すると子供の頃からの吃音癖が顔を出し、ますます言葉に詰まるのだった。顔を紅潮させ、絶句する候補はヤジの嵐に見舞われた。

「なんだ、そのヒゲはッ。おめぇ、本当に20代かよ!」
「チョンガリ(浪曲)が得意だそうだが、演説はええからひと節やってみれ!」

 いよいよ言葉に詰まる中、振り絞ってのそれは「み、皆さん…。新潟と群馬の境に三国峠がありますです。そ、そこを切り崩してしまえば、もはや越後に大雪は降らなくなり、苦しむことはなくなるのであります。切り崩した土砂は、に、新潟と佐渡の間を埋め、陸続きにすればええんであります!」と、後世の語り草になっている伝説的“政見”の披歴だった。

 しかし、聴衆からすれば大ボラに近く、やはりヤジの追撃であった。
「おめぇ、ナニ言ってるんだ。バカタレッ」
「すぐ、やってみろや。引っ込めッ」

 さすがに、田中は逃げるように壇上から去り、冒頭のように草間がお手上げになるのはもっともだった

 また、のちに田中の圧倒的票田となった農民層も、たとえ街頭演説でも集まるのはパラパラ、通りすぎる農民に田中が手を振っても、アカンベーをして去る者もいたという具合だった。

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