江戸時代、遊女の最期は寺に投げ込まれていた?苦界に身を落とした遊女たちが眠る浄閑寺とは (2/3ページ)
この地震で吉原の遊女たちも大勢亡くなり、浄閑寺に投げ込まれるようになりました。ただし、言葉通りに投げ込まれていたわけではなく、地震の混乱と重なって、投げ込まれるようにして遺体が運ばれてきたのでしょう。
その後、身寄りのない遊女が亡くなれば浄閑寺で埋葬されるようになります。それで浄閑寺は「投げ込み寺」と呼ばれるように。
苦界に身を落とした遊女を供養する浄閑寺には、1743年・寛保3年から1926年・大正15年までの遊女の名を記した過去帳が現存するそうです。そして浄閑寺に葬られた遊郭関係者(遊女、遊女の子供や遺手婆)の数は、推定2万5千にもなるとか。
そんな遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が、浄閑寺にはあります。
もともとあった「供養塚」を改修したのは、昭和4年のこと。供養塚は、安政江戸地震で亡くなった500人にもなる遊女を供養していました。