良い小説は「ボイス」が聞こえてくる 平野啓一郎と速水奨が語る小説論、演技論(前編) (4/5ページ)

本作のなかに出てくる「ある男」は、生きていて楽しいという自分をなかなか持てない中で、違う自分として生きたいという願望を実践しようとしたことが物語の核になっています。そして、主人公の城戸もまたそういう人に感情移入するというか。他人の人生を通じてなら、自分に正直になれるという感じは小説を読むときにもある感覚だと思うんですよ。
自分の考えを自分の名において引き受けるって結構大変じゃないですか。卑近な話だけど、不倫についてどう思うか「自分の意見」を話してもらうとします。ここで例えば、テレビカメラが回っていたりしたら「良くないことだと思います」と、大体みんな保守的なことしか言えなくなる(笑)。
だけど『アンナ・カレーニナ』という、ある女性が不倫をする小説を読んで、「アンナ(不倫をした女性)をどう思うか」と聞くともうもっと複雑で繊細な感想が出てくる。「不倫は良くないが、夫とうまくいっていないときに別の男性に心惹かれる気持ちはわかる」とかね。フィクションを通せば、自分のもうちょっと繊細で複雑な本心を語れるというところがあって、それが小説やアニメといったフィクションの良さじゃないかと思うんですよね。他者に対しても優しくなれる。
――本心という言葉も出てきましたが、速水さんにとって演技は「自分」の一部分を使っている感覚ですか。それともまったく自分と切り離したものなんでしょうか。速水:切り離したものは無理ですね。フェイクな感情はどこまでもフェイクなんですよ。平野さんがおっしゃるところの「分人」――自分の中にある嫌な自分、優しい自分を把握して、自分を通して役のフィルターをつくって、なるべくナチュラルな自分を投入していく、というのが役の作り方なんです。だから、まずは自己分析をしないと演じるための基礎的な喜怒哀楽も表現できません。たとえば自分が夫婦喧嘩したときのことを「あの時の怒り方か」というようなものを引っ張り出してこないとリアリティが出ない。