比叡山から鎌倉新仏教の開祖が数多く生まれた理由とは (3/3ページ)

心に残る家族葬

鎌倉新仏教の開祖たちも比叡山に上って人は誰でも救われる、仏になれるという天台教学を学び天台戒壇院で授戒を受けた。しかし平安末期から鎌倉時代にかけて武士の台頭で、朝廷の権力が弱まり、貴族による政治が終焉を迎え、戦乱や疫病が流行すると、人々の間に末法思想が広まり、誰もが救われる教えを求める機運が高まってきた。今までの奈良仏教は一部特権階級である貴族たちだけのものであり、民衆とは遠い存在であった。平安の天台宗や真言宗も朝廷の保護のもと、救済の対象は天皇や貴族たちであって、民衆が対象になることはなかった。こうした民衆の要望に応えるためには比叡山という山にいては限界があると考えた鎌倉新仏教の開祖たちは平地に降りて、今まで救済の対象でなかった武士、農民、非人、女性などの庶民に対し困難な修行は不要で(易行)、多くの経典の中から一つを選び(選択)、それだけにすがれば良い(専修)と精神の救いを平易に説いたので、民衆はこぞって帰依した。鎌倉新仏教の開祖たちは比叡山で天台教学等を学んだ基盤があったがゆえに思想を発展させ自らの教義を独創できたと言える。

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