豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】 (3/4ページ)
尾張守護の嫡男としてそなたを尾張守護代に任ずるゆえ、父の仇である大和守を討ち参らせよ!」
助けを求めておきながら随分と偉そうな態度ですが、実際に守護は偉いのであり、その嫡男である岩竜丸を奉ることで尾張国を統一する大義名分が得られるのですから、信長はほくそ笑みつつ唯々諾々と従います。
「……御意(ぎょい)」
信長から二百人扶持(※)を与えられた岩竜丸は元服して斯波義親(よしちか)と改名。一方の幼君は織田家臣の毛利十郎(もうり じゅうろう)の養子となり、元服して毛利長秀(もうり ながひで)と改名します。
長秀という名前は毛利一族の通字(一族で共有する漢字)である「秀」に、信長から賜った「長」の字を冠したものと考えられ、尾張守護の嫡子に対する配慮よりも、少年に対する期待が込められているように感じます。
(※)扶持とは成人男性が一年に食べるとされる玄米の量で、江戸時代を参考にすると一石八斗(1,800合≒270kg)、ここではそれが200人分収穫できる土地を意味します。
その後、天文二十四1555年4月20日に父の仇である大和守を討ち果たし、正式に尾張国守護となることができました。
しかし実際の政治は一事が万事信長に仕切られており、これでは斯波家の操り主が大和守から信長に変わっただけで、まったく面白くありません。