豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】 (1/4ページ)
豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の後継者として多くの歴史ファンにその名を知られている人物ですが、実はもう一人「豊臣秀頼」がいたことをご存じでしょうか。
それもたまたま同姓同名という訳ではなく(※そもそも豊臣という姓自体、おいそれとは名乗れません)、何と秀吉の公認です。
いったいどんな武将で、どんな人生を送ったのか、少し気になるところ……そこで今回は、戦国時代を生きた「もう一人の豊臣秀頼」について紹介したいと思います。
守護代・織田大和守の謀叛で父を失う秀頼は天文十1541年、尾張国(現:愛知県西部)の守護・斯波義統(しば よしむね)の次男として誕生しました。
幼名は不明、『信長公記』によれば「幼君(おさなぎみ)」と記されているので、ここでは元服まで便宜上「幼君」とします。
当時、斯波家は室町幕府に認められた守護として尾張国を支配していましたが、実権は守護代の織田家に握られた傀儡(かいらい。操り人形)状態であり、その織田家も内部での争いが絶えない群雄割拠状態となっていました。
※後に尾張国を統一し、天下布武を謳って覇業を立てた織田信長(おだ のぶなが)は、現時点ではまだ織田一族の分家に過ぎない立場です。