豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】 (5/6ページ)

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源五の生年は不明ですが、養子入り時点で0~5歳前後と仮定した場合、天正十1582年で15~20歳前後となるため、同年の甲州征伐(天正十1582年2月3日~3月11日)が初陣となった可能性も考えられます。

高遠城で武田の猛将・仁科五郎盛信を攻略するが……

さて、長秀は織田信忠に従って攻略した信州伊那郡の大島城(現:長野県下伊那郡松川町)に在番。大島城は南信州の重要拠点で、長秀はここから南の徳川軍と連携をとりながら、東に残る武田軍に睨みを利かせます。

信玄公の名に恥じぬ戦いぶりを見せた仁科五郎盛信。Wikipediaより。

しかし、同じ伊那郡の高遠城(現:長野県伊那市高遠町)に3,000の兵で立てこもる武田の猛将・仁科五郎盛信(にしな ごろうもりのぶ。武田信玄の五男)が激しく抵抗、50,000の兵をもってなお攻めあぐねていた信忠への援軍として大島城から出陣。その傍らには源五の姿もありました。

「父上……この源五、毛利の子として家名に恥じぬ槍働きをご覧に入れます!」

「おぉ頼もしや頼もしや……しかし不惑(=40歳)を過ぎたとて、父もまだまだ負けてはおらぬぞ!」

「はい、一日も早く父上の背を越えられるよう、精進致しまする!」

永年にわたり手塩にかけて鍛え上げた愛しい我が子と念願の初陣。

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