豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】 (4/6ページ)

Japaaan

「甲斐の虎」を退治する毛利長秀(イメージ)。

かつて甲斐の虎と呼ばれた武田軍、そして越後の龍と恐れられた上杉軍に対する勝利に大きく貢献した長秀は、信長の覚えますますめでたく、ついに武田勝頼に止めを刺す「甲州征伐」にも従軍します。

養子・安藤源五の初陣

ところで長秀には男子がおらず、かつて信長が美濃国(現:岐阜県南部)の斎藤竜興(さいとう たつおき)を攻略した永禄十1567年、斎藤家旧臣で西美濃三人衆の一人・安藤伊賀守守就(あんどう いがのかみもりなり)が一族の中から、戦で父を亡くした遺児・源五(げんご)を養子に出してくれました。

安藤一族にしてみれば体(てい)のよい厄介払いor口減らしを兼ねて、信長のお気に入りである長秀と誼(よしみ)を通じることで織田家に取り入ろうとしたのかも知れませんが、長秀にしてみればありがたく授かった我が子です。

かつて父・毛利十郎がそうしてくれたように、愛情をもって厳しく鍛え上げ、やがて共に戦場を駆け巡るようになりました。

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