豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】 (2/5ページ)
その人物は幼くして父(尾張国守護・斯波義統-しば よしむね)を亡くし、織田信長(おだ のぶなが)の家臣・毛利十郎(もうり じゅうろう)の養子となって元服。毛利長秀(もうり ながひで)と名乗ります。
その後、信長の馬廻として桶狭間の初陣から幾多の戦場を駆け巡り、石山本願寺や武田・上杉と言った強敵を相手に武功を重ねてきました。
戦に明け暮れる中、養子に迎えた安藤源五(あんどう げんご)を手塩にかけて鍛え上げ、ついに天正十1582年の甲州征伐で初陣を果たさせたものの、滅びゆく武田の意地を見せた敵方の激しい抵抗によって源五は討死。
戦場に身命を賭するは武士の習いとは言え、最愛の息子を失って悲歎に暮れる中、せめてもの慰めか論功行賞で信州伊那郡の飯田城(現:長野県飯田市)が与えられ、とうとう一城の主となった長秀ですが……。
城を奪われたリベンジを期して「秀頼」と改名晴れて飯田城を与えられた長秀ですが、伊那郡を治めた期間は約3ヶ月とごく短いものでした。