豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】 (3/5ページ)
最期まで果敢に抵抗した信長。月岡芳年「大日本名将鏡 織田右大臣平信長」明治十一1878年より。
と言うのも「本能寺の変(天正十1582年6月2日)」によって信長たちが変死を遂げたことで、いまだ主君を滅ぼされた恨みに燻っていた武田の残党が俄かに勢いづいたのです。
松尾城主(現:長野県飯田市)・小笠原掃部大夫信嶺(おがさわら かもんのたいふのぶみね)の裏切り(※)もあり、形勢不利とみた長秀は飯田城を放棄して尾張国まで退却。飯田城は武田の残党・下条兵庫助頼安(しもじょう ひょうごのすけよりやす)の手に落ちてしまいました。
(※)とは言うものの、長秀は信長の命によって信嶺の暗殺を企み、しくじっているため、恨まれてしまうのも仕方ないところです。
「おのれ兵庫助!いつか必ず飯田城を奪還してくれるわ……!」
怒りに燃えた長秀は、リベンジを期して秀頼(ひでより)と改名。長秀の尻(名前の末尾)である「秀」の字に、頼安の頭文字である「頼」を敷いてやろう、という決意の表れとも考えられます。