豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】 (4/5ページ)
あるいは亡き主君・信長の長よりも、これからの台頭が見込まれる羽柴藤吉郎秀吉(はしば とうきちろうひでよし)にあやかろう、取り入ろうとして秀吉の「秀」の字を名前の頭にもってきたのかも知れません。
以降、長秀あらため毛利秀頼は秀吉に仕え、槍働きよりも謀臣としての手腕を発揮するのでした。
小牧・長久手の戦いで敵を調略、秀吉の逆転勝利に貢献!さて、信長亡き後、織田政権の後継者として頭角を現した秀吉ですが、元々は百姓上がりの「猿」に従うことを快く思わない政敵は数多く、秀吉はそれを一人ひとり誑(たら)し込んだり、討ち滅ぼしたりと多忙な日々を送っていました。
織田家中でも逸早く秀吉の可能性に賭けて臣従した秀頼も、水面下での工作に奔走しましたが、中でも最大の働きと言えば、秀吉にとって最大のライバルである徳川家康(とくがわ いえやす)を相手に繰り広げた小牧・長久手の戦い(天正十二1584年3月~11月)でしょう。
家康が、信長の遺児でありながら蔑ろにされて秀吉を恨んでいる織田信雄(おだ のぶかつ)を担ぎ上げたことで始まったこの戦は、かつて信玄公より「海道一の弓取り」と称賛された戦上手の家康を前に苦戦を強いられます。