絵画のような音楽。『いかれたBaby』に包み込まれるやさしい夜 (3/4ページ)
それでも、多幸感のあるやさしい歌だということはわかった。
「これ、音楽じゃなくて絵みたいだね! この辺にね、動く絵みたいに映って見えるの! こんな曲聴いたことない!」
そう興奮気味に話すと、「ののかさんと好きなものをひとつ共有できてうれしいな」と言った。私もようやく、彼の好きな世界に足首を浸せたような気がしてうれしかった。
それからというもの、私はTSUTAYAで借りてきたCDをiPodに入れ、毎日のように聴きかじった。いや、見ていた。
Fishmansは『いかれたBaby』以外の曲も、おしなべて動く絵画だった。彼に会えない日もFishmansを“見る”ことで彼の一部を泳いでいるような気がした。そして、それはとても幸せな時間だった。
■歌詞の意味を知り、6年越しに歌と出会い直す
その後、私は東京で就職し、大学院に進んだ彼とは中距離恋愛になり、社会人になってまもなく、私は体調を崩して休職することになった。徐々に病み募らせ、依存度が高まる私を支えきれず、彼から別れを切り出した。
「嫌だ、別れたくない」と堂々と言える状態でもないことは、自分が一番よくわかっていた。
それでもやりきれなくて、別れを切り出されたインドカレー屋で、卓上の紙ナプキンを鼻をかむためにすべて使い切り、くしゃくしゃに丸めたそれを片っ端から彼に投げつけた。
彼はよけずにすべて受けてくれたけれど、それは同時に黙って受ければ私が納得すると思っているかのようにも見えた。
私が投げるのをやめて「わかった」と言うと、彼は泣きながら「ありがとう」と言った。情けなくて消えたかった。
彼を思い出してしまうので、しばらくの間はFishmansを聴かないようにしていた。
それでも、急に心もとなくなる夜中に『いかれたBaby』をかけると、水戸に行く道中の情景がローソクに火を灯したかのごとく浮かび上がってくる。
彼の不在に殺されそうな夜を迎えるたび、手を伸ばしても触れない、蜃気楼のような風景に背中をさすられて乗り越えてきた。相変わらず歌詞は知らなかった。ことばのない世界に身を浸しているのが心地よかった。