歴代総理の胆力「鳩山一郎」(2)執念の「日ソ国交回復」 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「鳩山一郎」(2)執念の「日ソ国交回復」

 しかし、不運にさいなまれた鳩山にも、ようやく光明が巡ってきた。昭和28年4月、吉田茂による「バカヤロー」発言に端を発した解散・総選挙で、吉田率いる自由党は敗北、これを機に自由党内で「鳩山総理待望論」が噴出し始めたのである。鳩山の脇を固めたのは、三木武吉(ぶきち)、石橋湛山(たんざん)、河野一郎といった海千山千の党人の面々だった。

 昭和29年11月、鳩山は意を決し、吉田とたもとを分かって民主党を結成した。翌12月に吉田はシブシブ退陣、鳩山内閣が成立した。世論は、「鳩山ブーム」で盛り上がった。脳出血での再起不能説も出たがこれを克服、半身不随のハンデを負いながらも第一線に再浮上してきたこと、国民が吉田の長期政権に飽きていたことなどが、その「鳩山ブーム」の大きな要因だった。それは、鳩山が政権に就いて2カ月半後の総選挙で、鳩山民主党が吉田自由党を大きく突き放して大勝したことでも明らかだった。

 スタートした鳩山内閣は、当時としては新鮮な政策、方針を次々と打ち出した。内政面では「住宅建設40万戸の促進」「小選挙区制への選挙制度改革」などから、役人のゴルフ・麻雀の禁止といったことまでだったが、結果的にはほとんどが「打ち上げ花火」で終わってしまった。

 その原因は、大きく“人事ベタ”にあったと思われた。人事は的確にその人物の適性を見抜き、適材適所で臨まなければ機能しないが、鳩山はそうした才能に欠けていた。鳩山内閣は3次のそれまで、実に7回の改造を行ったが、改造のたびに党内に不平分子が増えていくといった具合だったのである。これでは、政策推進などがかなうはずがない。詰まるところ、理念先行、実質ともなわずの鳩山政治ということになった。

 「友愛革命として、友情と智を両輪とした民主主義の確立を目指す」の言葉も、結局、政治現場での峻厳な争いの中では理念先行となり、命脈を保てなかったということである。鳩山の「胆力」の限界ということだったかも知れない。

 そうした悲運が目立った鳩山ではあったが、執念として残した実績は、昭和31年10月の「北方領土」の帰属問題はタナ上げとしたものの、「日ソ(現・ロシア)共同宣言」への調印であった。

「歴代総理の胆力「鳩山一郎」(2)執念の「日ソ国交回復」」のページです。デイリーニュースオンラインは、週刊アサヒ芸能 2019年 11/28号鳩山一郎内閣総理大臣小林吉弥吉田茂社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
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