仏教者の中でも大人気の真言宗開祖 弘法大師・空海の即身成仏と現実肯定の哲学 (3/4ページ)
そもそも宗教というものは、肉体より精神・魂の優位を説くことが多い。さらに大乗仏教は魂・自我といったものすらも実在はしないとする「空」の域にまで達した。しかし空海は現実世界に重きを置き物質と精神の一致を求めた。
■空海が本当に説いたこととは
日本における仏教思想の変容に本覚思想がある。「草木国土悉皆成仏」と言われるように、生きとし生けるもののすべてに、あるがままの世界そのものに生命を宇宙を仏を見出す。空海はそのすべてが真言密教の本尊にして、宇宙そのもの存在・大日如来が姿を変えたものであるとした。すべてが大日如来であるならば、この身体も精神も大日如来である。存在そのものが既に仏なのだ。つまりこの身がそのまま、即、仏であることに気づくことが「即身成仏」なのである。大日如来の概念がわかりにくいという向きには「宇宙的大生命」と言えばニュアンスが伝わるだろうか。
空海の思想は壮大な宇宙観である。大日如来という大宇宙・大生命(マクロコスモス)と、人間という小宇宙・小生命(ミクロコスモス)は対応する関係であるとし、それに気づく(即身成仏)までの過程と方法をシステマティックに展開したものだ。その根本にあるのは、世界の肯定、身体・現象の肯定であった。空海はすべてを肯定する。性欲すら肯定する。性欲は生命そのものだからだ。また一切を「無」とする禅の芸術は水墨画などシンプルな表現を用いるが、密教芸術は色彩が豊かなことが特徴的だ。現実の世界は様々な色に満ちている。即身成仏の境地から見た世界は美しいのである。
■シンプルが良いとは限らない
このような真言密教の教えが貴族仏教と言われるのは仕方がないことであろう。その複雑な体系を学のない民衆が理解できるわけはなく、当時の知識階級の専有になることは必然であった。後年の鎌倉仏教は念仏だけ、座禅だけとシンプルな方法に絞ったからこそ民衆に受け入れられたのである。
しかし、シンプルだからこそ難しいということもある。念仏も禅も形こそ単純かつ容易だが様々な要素から抽出したエッセンス、いわば奥義である。親鸞は念仏のみで救われると説いた一方で、本気で信じることは「難中之難」とまで言っている。禅もただ座れと言われても、その先に何があるのかは抽象的で難解である。