歴代総理の胆力「三木武夫」(4)「武夫よ、黙すなかれ」 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「三木武夫」(4)「武夫よ、黙すなかれ」

 さて、それまでまずは順風満帆、淡々とした政治家生活だった三木が、初めて闘争心を露わにしたのは、睦子との結婚生活がキッカケのようであった。それは、三木の「男は勝つまで、何度でも勝負する」といった言葉に表れている。

 三木は、「政治の近代化」「反官僚政治」を掲げて佐藤栄作首相に対抗、自民党総裁選の「3選」「4選」時に出馬、いずれも敗北した。しかし、ここで諦めることはなく、佐藤退陣を機とした田中角栄が勝利した昭和47(1972)年7月のいわゆる「三角大福」(三木・田中・大平・福田)が出馬した総裁選に、3度目のチャレンジをしたのだった。そのときの出馬の際に出た言葉が「男は勝つまで──」のセリフだったのである。当時の三木派担当記者の話が残っている。

「『勝つまで──』のセリフは、睦子夫人の『パパ、金権政治を放っておいてどうするの』といった“尻叩き”によって出たものとも言われている。しかし、三木は、変幻自任と言うべきか、したたかさも、夫人から相当キタえられたようで、3度目の挑戦の総裁選第1回投票はたった47票しか取れずの最下位に惨敗だったが、決選投票でこんどは田中を支持するという挙に出た。

 さらに、田中内閣の副総理として入閣しても、こんどは田中政権の評判が急落すると、率先辞任して田中批判に回るなど、“飛び乗り、飛び降り名人”ぶりを存分に見せつけた」

 田中政権のあとの三木政権は、政権末期に自民党内から総反発を食う形で、約2年で幕を閉じた。

 時に、自民党内は三木政権のアト釜を窺う福田赳夫と大平正芳が反目し合う一方、三木政権の“独走”から反三木の空気が高まり、ついには「三木おろし」に発展した。刀折れ矢尽きた感で、以後、政界の表舞台で得意の「芸」を見せることはなかったのだった。

「議会の子」として政治一筋、とくに趣味もなかった三木は色紙にはよく揮毫した。その「信なくば立たず」などの書、平山郁夫画伯から一時期手ほどきを受けた油絵を10点ほど、一方の睦子夫人は得意の陶芸作品は50点を出品しての、夫妻の「おしどり展」を開いたことがある。三木が退陣して7年半後の昭和59年3月である。

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