天才テリー伊藤対談「田淵幸一」(2)広岡監督は本当に冷酷冷血だった!? (1/2ページ)

Asagei Biz

田淵幸一
田淵幸一

テリー 田淵さんは阪神で10年大活躍した、いわば「ミスター・タイガース」みたいな選手でしたよね。それがまさかの複数トレードで西武へ移籍することになって‥‥プライドを傷つけられたように感じますが。

田淵 そりゃあショックでしたよ。選手人生は、完全にシマのユニホームで終わると思っていましたから。昭和44年、阪神入団のために大阪へ行く時は、たくさんの記者やカメラマン、ファンが待っていました。でも、荷物をまとめて新幹線で東京へ帰る時は誰もいなかった。あの屈辱感は今も忘れられないですね。

テリー まして、西武はチーム改名の直後だし、不安もありますよね。

田淵 阪神はちょっと成績が悪いと「給料泥棒!」とヤジられて、ドライアイスなんかが飛んできますけれど、西武はお客さんが優しくて、子供の声で「田淵さん、頑張って!」だから勝手も違ってね。「俺の野球人生、これで終わりかな」なんて思いましたけれども、82年に広岡(達朗)さんと出会ったことで、私の人生は大きく変わることになるんですよ。

テリー 広岡さんはどういう監督だったんですか。

田淵 世間で「冷酷冷血」って言われていましたけれど、まったくそのとおりですね(笑)。次の監督が広岡さんってわかって、俺や東尾(修)、石毛(宏典)ほか、みんなガクッときて。我々は厳しい野球をやってきていなかったから。

テリー 前任の根本(陸夫)監督は放任主義で有名でしたものね。

田淵 キャンプインする時に、1、2軍全員を集めて指針を伝えるんですが、その第一声が「このチームで最高給取りがいます。それが守れない、走れないとはどういうことですか」と。しかも、私の顔を見ながら、それを言うわけです。

テリー フフフ、名前を出さずとも本人にしっかり伝わるということか。

田淵 その調子で東尾、石毛、大田(卓司)と4人やられたんです。もうみんなロッカーに帰ったらカッカしていて「おい、あんなことまで言われて、我慢できるか!」って。でも、それが広岡さんの手なんです。上さえ握っておけば、若い選手がついてくるのがわかっているので。

テリー あぁ、なるほど。

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