本能寺の変で安土城を焼いた真犯人は?明智光秀の娘婿・明智秀満が無実と主張する根拠を紹介 (2/5ページ)

Japaaan

明智左馬光春(秀満)。知勇兼備の名将として知られた。Wikipediaより。

その後、天正六1578年以降に光秀の出戻り娘を妻に迎えたことで婿となり、明智秀満と改名しました。彼女は信長の家臣である荒木村次(あらき むらつぐ)に嫁いでいましたが、舅である荒木村重(むらしげ)が謀叛を起こしたため、離縁されてしまったのでした。

正直「いわくつき」の縁談ではありましたが、秀満はこれを快諾。光秀への篤い忠義が、彼女に対する深い愛情にもつながっていった事でしょう。

天正九1581年には丹波福知山城(現:京都府福知山市)の城主となり、光秀が茶会を開いた際には天下三大茶匠の一人として知られた津田宗及(つだ そうぎゅう)を招いてその饗応役を務めており、相当にハイレベルな教養を備えていたことが判ります。

そして天正十1582年6月2日未明、運命の本能寺では先鋒を任され、光秀からの信頼に応える戦果を上げた後、6月5日には信長の本拠地である安土城を占領したのでした。

秀満が安土城を焼かなかった理由

しかし、それから間もなく光秀は「山崎の戦い(6月13日)」でライバル・羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗れて命を落とし、その報せを受けた明智軍は総崩れとなって本拠地である坂本城(現:滋賀県大津市)へと潰走します。

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