一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【完】 (3/4ページ)

Japaaan

晴れて「朝敵」の汚名を返上した毛利敬親・定広父子。Wikipediaより。

そして慶応三1867年12月8日、毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、晴れて長州藩は「朝敵」の汚名返上を果たしたのでした(※この時、剥奪された経幹の官位・監物も復帰しています)。

明けて慶応四1868年3月13日、新政府は岩国6万石を「岩国藩」に昇格させ、経幹は(生きているものとして)その初代藩主となったのでした。

(※ついでに経幹は駿河守にも任じられており、討幕に貢献した者たちを厚遇することで、味方の士気を高める狙いもあったことでしょう)

6万石という大身でありながら、かつて関ケ原で(忠義の故とは言え)主君・毛利家を裏切ってしまったために、江戸時代を通してずっと一領主に甘んじ続けて来た吉川家が、ついに諸侯(大名)の仲間入りを果たしたのです。

そして戊辰戦争もひとまず終息した明治元1868年12月28日、経幹は経健に家督を譲って隠居(したことにされ)、明けて明治二1869年3月20日、亡くなってちょうど2年が経った節目で、その死が正式に公表されました。

戒名は有格院春山玄静(ゆうかくいん しゅんざんげんせい)、墓所は洞泉寺(現:山口県岩国市)にあり、今も岩国の人々を見守っています。

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