江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【下】 (4/5ページ)
六代目・山本菅助(四代目菅助)
※寛永九1632年生~元禄五1692年没
三代目菅助の嫡男ですが、諱は不詳。延宝八1680年に主君・永井信濃守尚長(ながい しなののかみなおなが)が家臣に殺害され、跡継ぎがなかったために改易されると、土浦藩主の松平因幡守信興(まつだいら いなばのかみのぶおき)に仕えました。
初代菅助が得意とした城取とは、城を「攻め取る」と同時に「間取り」の意味も。
貞享二1684年、土浦城(現:茨城県土浦市)の普請奉行を拝命した菅助は、大手口(高津口)を武田流の出枡形に、搦手口(真鍋口)に丸馬出を二つ重ねるなど、初代菅助が考案したと言われる城取(ここでは築城術の意)を採用。
また、寛文十二1672年4月に甲斐国の恵林寺(えりんじ。現:山梨県甲州市)で執り行われた「信玄公百回忌」法要に参列した記録が残されています。
七代目・山本十左衛門尉※生没年不詳
四代目菅助の養子で、諱は不詳。山本家は代々嫡男を「菅助」、養子を「十左衛門尉」と称するしきたりになっていたそうです。