ある刀工が眠るという太宰府市の宝満宮竈門神社の板碑を調べてみた (5/7ページ)

心に残る家族葬



■刀工の板碑であるかどうかは明らかではないかもしれないが…

板碑がつくられた時期は恐らく、宝満山の修験道が隆盛を極めていた時期だと考えられ、墓碑を含む「刀工金剛兵衛源盛髙」ゆかりのものか否かはともかく、修験道の山伏か、竈門山寺の僧侶か、竈門神社の神人か、宝満山を奉じる地域の有力者か、いずれにせよ、不動明王の功徳を衆生に施すことを強く祈るために立てられたことは間違い無いだろう。

■金剛兵衛一派の刀剣の特徴

修験道における修行は一般に、穀類を断ち、山野の木の実を食する「木食行(もくじきぎょう)」、山々を踏破する「山林抖擻(さんりんとそう)」や、山中の洞窟に籠もること、断食、不眠不動、水行(すいぎょう)、火の中で煩悩を焼き尽くす「火生(かしょう)三昧」、そして地下に籠る土中入定(どちゅうにゅうじょう)、最終的には世の人々を救うために自身の命を捧げる捨身(しゃしん)に至る。このような、我々の日常生活からは想像を絶する厳しい修行を経て、山伏は古い自分を捨て去り、新たに超自然的な力、「験力(げんりき)」を得て生まれ変わるという。もともとは宝満山の山伏であったとされる初代の「金剛兵衛盛國」も、こうした修行に邁進していたことだろう。そうした背景を有する金剛兵衛一派の刀剣の特徴としては、先に紹介した、中心の先端の形が卒塔婆のように山形になっていることに加え、

・刀に見られる波模様、「刃文(はもん)」が、直線的に伸びた「直刃(すぐは)」で、多くが細直刃(ほそすぐは)である。

・日本刀は一般に、まっすぐな刀ではなく、ゆるやかなカーブを描いた形になっている。室町〜戦国時代の刀は通常、刀の根元と先端の長さにあまり差がない、反り(そり)が浅いものが多かったが、金剛兵衛のものの場合、反りが高い。

・製作の際に金属を打った跡、「地鉄(じがね)」には、木材の板のような肌合い(板目)が流れ、その中に、ややまっすぐに通った木目(きめ、柾目(まさめ))が混じっている。

などがある。「刀剣マニア」でなければわからない「違い」ではあるが、「わかる人」には、他の刀工がつくったものとの違いが明確で、「金剛兵衛のもの」と見分けることができるのだろう。
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