ベルリンの壁崩壊へと繋がった革命的な市民運動の原点 / ドイツ・ライプツィヒの「聖ニコライ教会」 (2/5ページ)

GOTRIP!

スターリンの死後ソ連指導部は大きく方針を転換、東ドイツへの賠償請求を放棄、東ドイツ国内にあるソビエトの企業を東ドイツの国営企業とするなど、当時の世界をとりまく様々な状況を踏まえた上で東ドイツの全体を支えていく政策を進めていきます。

しかしながら、ハンガリー動乱などの影響もあり、高い教育を受けていた東ドイツの国民は西側へと移民し、多数の国民が流出し続ける状況は東ドイツの存在そのものを脅かしていきます。

当時、唯一国境が開かれていたのは、西側と東側とが分割統治をしていたベルリンのみでした。そのため東ドイツの将来を悲観した人々はベルリンを経由して西側へ大量に逃亡・流出していきました。

そんな状況を強硬手段で防ぐ、それが1961年8月12日に東ドイツ側が行った、西ベルリンの周囲を有刺鉄線と武力で封鎖した事件でした。この事件の後、1989年11月9日まで、長く続くベルリンの壁が建設されていきます。

ここで少し東ドイツ経済の状況を確認しておきましょう。

実は東ドイツの経済は、このベルリンの壁によって恩恵をうけます。労働力の流出を強制的に防ぎながら、西側の自由主義経済を取り入れたため経済は発展しつづけ「社会主義の優等生」と呼ばれるまでに成長し、1972年には西ドイツとの国交も樹立します。

しかし、そのバランスを打ち壊したのが1973年と1979年に発生したオイルショックでした。このオイルショックによって東側諸国は経済的に大きなダメージをうけ、その暗く長い不況の時代を迎えてしまいます。


そんな状況の中、一人の牧師によって1982年10月から毎週月曜日に「東西の軍拡競争に反対する平和の祈り」が捧げられます。

その場所こそ、ここドイツ・ライプツィヒの「聖ニコライ教会」でした。いまではその祈りが捧げられた場所に大きな柱のモニュメントが立っています。

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