伊達政宗の代になって急増する殉死者の数~秘密のベールに包まれた高野山 (3/3ページ)

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伊達の三傑(片倉小十郎・伊達成実・茂庭綱元)のひとり茂庭綱元は、後見役となった政宗の五男宗綱が早世すると、その菩提を弔うため高野山に入道して”了庵”と名乗り、三年間にわたって供養を行いました。その寺が「成就院」です。

綱元はこのとき70歳。政宗公が「行くな」と引き止めた記録が残っています。

その3年前までは、真田幸村が父昌幸とともに高野山の入口に当たる九度山に幽閉されていました。幸村はのちに大坂夏の陣(1615)で覚悟を決めたとき、自分の幼子4人を伊達家臣の片倉小十郎重長に預けます。そのうち男子真田大八(1612生)は九度山で生まれています。そして仙台藩に庇護されのちの仙台真田家へと血脈が繋がるのです。

綱元が山を下りて仙台へ戻ったのが1620年。この年、フィリピンに足止めされていた支倉常長(政宗の遣欧使節)と、松平忠輝公と離縁させられた五郎八姫(政宗の長女でキリシタン)が同じく仙台入りしています。

1620年は、奇しくも星の街仙台のキーパーソンの奇妙な一致が見て取れる年です。

参照:

高野山と仙台藩 大林昭雄著 星の街仙台

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