福岡県飯塚市筒野の権現谷にある五智如来板碑を調べてみた (4/6ページ)
嘉麻一帯は、主に農業が行われていた地域であるが、五智如来板碑の北側にある丘陵の権現谷には、岩壁を削って階段を設け、横幅およそ9m、奥行き5.43m、高さ3mほどの石窟がある。そこには「岩屋権現」が祀られているのだが、かつては彦山に次ぐ大きな修験道場があったという。しかも「ここ」は、先に紹介した五智如来板碑が平安時代末期に立てられたものであったことから、彦山修験道の「全盛期」に先駆ける「信仰の場」であったことも窺い知れる。
■そして英彦山は修験道としての役目を終えた
その後の彦山修験道だが、戦国期における龍造寺氏や大友氏による焼き討ち、豊臣秀吉(1537〜1598)による寺領没収などで、一旦衰退してしまう。しかし江戸期に入ると、細川氏や小笠原氏らからの庇護を得て、全盛期には及ばないものの、復興を果たした。しかも山伏たちは「聖域」内に閉じこもった厳しい修行のみならず、海を渡り、今日の西日本一帯を跋渉し、五穀豊穣・除災招福の祈祷札や「不老円(ふろうえん)」という薬を配布したり、彦山詣でを民衆に勧めたりするなど、「民間祈祷師」としての役割も果たしていた。しかし明治時代になってから、1868(明治元)年の神仏分離令、4年の廃藩置県、5年の修験宗廃止令といった、政教両面の大変革によって、組織的な宗教活動が継続不能となり、山伏たちはもちろんのこと、彦山修験道にまつわる貴重な資料や美術品の流出・離散を招いた。その結果、古代的山岳信仰にシャーマニズム、そして日本の神と仏教の仏が複雑に混じり合いながら成立・発展した独特の「修験道」の「霊山」としての歴史を閉じることになった。
■五智如来板碑が今でも残っているのは奇跡
このように、歴史の荒波に翻弄され続けてきた英彦山修験道と深い関わりを有する筒野の権現谷の石窟や五智如来板碑だが、冒頭に紹介した原宿駅のように、解体の憂き目に遭うことがなかったのは、実に幸いだったと言える。