徳川御三家筆頭が倒幕に走った理由「天下りポスト」尾張藩主の恨み

日刊大衆

写真はイメージです
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 尾張藩は言わずと知れた徳川御三家の筆頭で、幕末に徳川慶勝がその舵取りを担った。彼は会津と桑名の藩主だった松平容保と定敬を弟に持ち、最後の将軍となった一橋(徳川)慶喜が従兄弟だ。身内であるこの三人が当時、江戸幕府を支えた「一会桑政権」のメンバーだったことから、慶勝も文句なしの佐幕派(支持派)と思いきや、現実は完全にその逆だった。

 実際、幕府の仇敵だった長州藩の窮地を救ったばかりか、薩摩藩の倒幕(王政復古のクーデター)に藩兵を出して協力。慶勝は新政府のナンバー2である議定のポストに就き、弟や慶喜はおろか、幕府の首脳さえも結果的に裏切った。それでは、徳川御三家の筆頭はいったい、なぜ倒幕派になったのだろうか――。

 そもそも尾張藩の初代藩主である徳川義直(徳川家康の九男)は尊王の精神が篤く、将軍家で問題が起きた際、その跡を継ぐ立場だったが、そのポストに就くことはなかった。

 中でも七代藩主の徳川宗春は、八代将軍となった徳川吉宗が紀州藩の出身で、家格が尾張藩よりも下だったことからライバル心を剥き出しにし、質素倹約を旨とした彼の改革を批判。吉宗をあざ笑うように奇抜な装束をし、遊郭や芝居小屋を作らせる一方、規制緩和を図って経済政策を積極的に推し進めた。その結果、名古屋城下は当時、デフレ経済に苦しむ江戸とは対照的にバブルに沸いたが、そうした政策が幕府に目をつけられ、隠居、謹慎に追い込まれた。

 また、のちに尾張藩で跡継ぎがいなくなった際、分家である美濃高須藩松平家(三万石)からの養子を幕府が認めず、一一代将軍家斉は自身の甥である斉朝を送り込む。その家斉は“オットセイ将軍”といわれたほどの子だくさんで知られ、斉朝の隠居後は、彼の子がその後継を占めるようになり、尾張藩主の座はいわば、“天下り”用のポストとなった。

 しかも、家斉はかつて、前述の七代藩主である宗春が強烈にライバル視した吉宗の血統。こうした事情から、藩内には幕府に対する不満が募る一方だった。家斉の一九男で一一代藩主だった斉温の死後、藩士は分家である前述の高須藩から慶勝を迎えることを嘆願したものの、やはり認められず、幕府の“押しつけ養子”が続いた。

 それでも一四代藩主である慶勝の就任が認められ、藩士の念願がようやく叶う。慶勝は高須藩主の次男で、一五代藩主となる弟の茂徳や前述の容保と定敬とともに「高須四兄弟」と呼ばれて藩士の期待を集め、藩祖である義直と同様に尊王の精神が篤い尊王攘夷派。井伊直弼(幕府大老、彦根藩主)が朝廷の許可もなく、日米通商修好条約を結ぶと、前水戸藩主だった徳川斉昭とともに詰問するため、江戸城に押し掛けた。

 慶勝は当然、江戸城の途上日が定められていたことから、この罪を問われて藩主の座を追われたが、井伊直弼が桜田門外の変で水戸浪士らに討たれたことで、復権。弟の茂徳が隠居し、自身の三男だった義宜がわずか六歳で藩主になり、再び藩政の実権を握った。

 一方で、慶勝は一四代将軍である徳川家茂の後見を託されて幕政に参加。幕府が元治元年(1864)七月二四日、蛤御門の変で朝敵となった長州を征討するため、西国の二一藩に出陣を命令し、慶勝は弟の容保らに総督就任を要請された。

 だが、慶勝は幕府から全権委任のお墨つきを得るためか、簡単に首を縦に振らずに徹底的に焦らした。狙いは何か。彼は参謀である薩摩藩士の西郷隆盛らに長州と交渉を進めさせ、戦端を開く前に「幕府に恭順する」との回答を引き出し、追討軍を撤兵させた。

 結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者とされた三家老の首を差し出し、幕府に恭順した一派がその後、クーデターによって一掃されて「武力倒幕」の方針で固まった。

 しかし、慶勝が恭順を認めずに、一気に叩き潰していたら、その後の歴史は大きく変わったはず。

■尾張藩の説得によって東海道は新政府方に!

 それゆえ、慶勝の決断は佐幕派に裏切りと見なされたようで、その従兄弟である慶喜は実際、参謀の西郷らの言いなりになったという意味で、「(薩摩)芋に酔ひ候」と皮肉ったほどだ。

 当然、尾張藩が七代藩主の宗春以来、幕府に対する不満を抱え続けたことも背景にあったとみられるが、慶勝は、内戦で列強諸国に隙を与えないことが最上の策、と考えたとされる。つまり、非戦の論理で、これを裏づけるように当時、鳥取藩主がしたためた書状に慶勝について、「密策の上においての策略謀計も種々御座候」とある。

 その後、幕府が慶応三年(1867)一二月九日、王政復古のクーデターで倒れた。そして、その翌年早々に旧幕府軍が薩長の挑発に乗り、鳥羽伏見(京都市)で敗れると、慶勝は朝廷から「姦徒を誅戮し、諸侯を勤皇へと導け」との命令を受け、名古屋に戻って藩内の佐幕派を粛清。さらに、藩内に勤皇誘引掛を設け、藩士を三河、遠江、駿河、美濃、信濃など諸国に遣わした。

 中でも岡崎は家康の生誕地で、三河は「御譜代」の大名や旗本領ばかり。だが、御三家筆頭の尾張藩の使者が来て時勢を説かれれば、彼らとて従わないわけにはいかない。結果、岡崎藩が新政府支持を表明すると、その他の諸藩も従い、東海道は尾張藩の説得が功を奏し、瞬く間に新政府方となった。

 そして、のちに有栖川宮熾仁親王を大総督とする新政府軍が東海道を下り、結果、江戸開城に繋がる。その地均しを行ったのが尾張藩だったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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