徳川御三家筆頭が倒幕に走った理由「天下りポスト」尾張藩主の恨み (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 尾張藩は言わずと知れた徳川御三家の筆頭で、幕末に徳川慶勝がその舵取りを担った。彼は会津と桑名の藩主だった松平容保と定敬を弟に持ち、最後の将軍となった一橋(徳川)慶喜が従兄弟だ。身内であるこの三人が当時、江戸幕府を支えた「一会桑政権」のメンバーだったことから、慶勝も文句なしの佐幕派(支持派)と思いきや、現実は完全にその逆だった。

 実際、幕府の仇敵だった長州藩の窮地を救ったばかりか、薩摩藩の倒幕(王政復古のクーデター)に藩兵を出して協力。慶勝は新政府のナンバー2である議定のポストに就き、弟や慶喜はおろか、幕府の首脳さえも結果的に裏切った。それでは、徳川御三家の筆頭はいったい、なぜ倒幕派になったのだろうか――。

 そもそも尾張藩の初代藩主である徳川義直(徳川家康の九男)は尊王の精神が篤く、将軍家で問題が起きた際、その跡を継ぐ立場だったが、そのポストに就くことはなかった。

 中でも七代藩主の徳川宗春は、八代将軍となった徳川吉宗が紀州藩の出身で、家格が尾張藩よりも下だったことからライバル心を剥き出しにし、質素倹約を旨とした彼の改革を批判。吉宗をあざ笑うように奇抜な装束をし、遊郭や芝居小屋を作らせる一方、規制緩和を図って経済政策を積極的に推し進めた。その結果、名古屋城下は当時、デフレ経済に苦しむ江戸とは対照的にバブルに沸いたが、そうした政策が幕府に目をつけられ、隠居、謹慎に追い込まれた。

 また、のちに尾張藩で跡継ぎがいなくなった際、分家である美濃高須藩松平家(三万石)からの養子を幕府が認めず、一一代将軍家斉は自身の甥である斉朝を送り込む。その家斉は“オットセイ将軍”といわれたほどの子だくさんで知られ、斉朝の隠居後は、彼の子がその後継を占めるようになり、尾張藩主の座はいわば、“天下り”用のポストとなった。

 しかも、家斉はかつて、前述の七代藩主である宗春が強烈にライバル視した吉宗の血統。こうした事情から、藩内には幕府に対する不満が募る一方だった。

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