城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【上】 (2/4ページ)

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また、父・長持が弘治三1557年に没し、まだ若い長兄・鵜殿長門守藤太郎長照(ながてる。長門守と藤太郎は世襲)が家督を継承したばかりなので、飯尾家の支援を受ける意図もあったでしょう。

ちなみに、連龍には前妻がいたのですが死別したようで、遺された息子の辰之助(たつのすけ)はお田鶴の方とほぼ同年代。辰之助にしてみれば、継母と言うより姉か妹のような感覚だったことでしょう。

「辰之助殿、これからは妾(わらわ)が継母(かか)にございますよ」

「……えぇ……?」

そんな御飯事(おままごと)のような家族に転機が訪れたのは永禄三1560年5月19日、桶狭間(おけはざま)の戦いでした。

「海道一の弓取り」義元の死に、連龍の決断は?

主君・今川義元が上洛を目指して尾張国(現:愛知県西部)の小大名・織田信長(おだ のぶなが)を攻めたところ、返り討ちに遭ってしまったこの戦いで、舅である飯尾豊前守善四郎乗連(のりつら。豊前守と善四郎は世襲)が討死してしまいます。

討ち取られる義元。英雄の死によって今川家の求心力が喪われた。

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