「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その2】 (1/2ページ)

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「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その2】

神君家康の孫、徳川2代将軍秀忠の息子として一時は将軍後継の最有力とまで目されたものの、わずか28年の生涯を自刃という形で終えた「徳川忠長」

今回は前回【その1】に続き「駿河大納言・徳川忠長」の生涯をご紹介する。

前回の記事

「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その1】

元服から「駿河大納言」へ

1620年元服。正式に「忠長」と名乗った。同年、織田信長の孫である織田信良の娘「昌子」と婚姻。昌子は当時わずか齢10であった。

1624年には甲斐に加え駿河・遠江を加増され55万石の領主となり、周囲の大名からは「駿河大納言」の名で形容されるようになる。

この頃の忠長には、知行に不服で、すでに大御所となっていた父・秀忠に「100万石」か「大阪城」を要求して呆れさせたという逸話が残っている。

しかし1626年に「権大納言」となってからは、後水尾天皇の二条行幸の上洛に随行し、父・秀忠の落胤(隠し子)で異母弟だった「保科正之」と面会、家康ゆかりの遺品を譲ったりと、政務に邁進している様子がうかがえる。

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