「狂人」といわれた男。徳川3代将軍・家光の実弟「徳川忠長」28年の生涯【その2】 (2/2ページ)
母の死と家光との確執
1626年、母である江が亡くなると、立場をわきまえない無自覚な行動が目立つようになったといわれている。
同年には父・秀忠と兄・家光の上洛に伴って、現在の静岡県を流れる大井川に幕府に無許可で橋を渡す。独断での施工に加え、大井川は江戸と駿府の防衛の役目を果たす要所であり、架橋はおろか渡し船も禁止されていたため家光の不興をかった。
品行の悪化から自刃まで1630年、忠長は領地内にある浅間神社付近の賤機山で猿狩りを決行する。
浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した神聖な土地であり自重すべき行動であったが、忠長は害獣駆除の名目で多くの猿を殺したとされている。
さらに、真意は定かでないが帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手を殺害している。その翌年には、自身の命令の遂行に手間取った家臣をまたも殺害。急速に乱行が目立つようになった。
度重なる乱行に甲府への蟄居が決定。その際、忠長は赦免を要求したが許されなかったという。
1632年に父・秀忠が死去すると領国すべてを没収され改易。上野国高崎へ逼塞(ひっそく。昼間の出入りを禁止する罰則)させられた。1634年、幕命により高崎において自刃。享年28。
【その3へ続く】
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