戦国時代、日本の地で剣術を修めた外国出身の武士「李家元宥」のエピソード【下】 (2/4ページ)
「ほぅ、そちが李将軍のご子息か……お父上については至極残念ながら、討ち討たれるは戦さの習いなれば、悪く思うでないぞ」
「ははぁ」
幼くも利発そうな顔立ちや立ち居振る舞いを見込んだ輝元は、聖賢を御伽衆(おとぎしゅう。側近)として取り立て、周防国熊毛郡勝間村(現:山口県周南市)に100石の領地も与えました。
「……有難き仕合わせに存じまする」
成長した聖賢は元服に際して主君・輝元より元の字を拝領、元宥(もとひろ)と改名しました。宥の字は、父を討った日本への恨みを「輝元が宥(なだ)める」という意味を込めたものかも知れません。
また、名字についても、李のままではいかにも朝鮮人なので、日本の領民たちも親しみやすいよう福余李(ふくより)と改めました。福は勇敢だった父・李福男から、そして余るほどの福を授かれるようにと考えたのでしょうか。
大野松右衛門に弟子入り、柳生新陰流を免許皆伝!成長した元宥は高橋隠岐守(たかはし おきのかみ)の娘と結婚。17歳となった慶長十1605年には、長男・長右衛門(ちょうゑもん。