戦国時代、日本の地で剣術を修めた外国出身の武士「李家元宥」のエピソード【下】 (4/4ページ)
主命により李家を称する
それから月日は流れて元和九1623年、輝元が嫡男・毛利秀就(ひでなり)に家督を譲って隠居すると、元宥は引き続き御伽衆として、今度は秀就に仕えることになりました。
「名高き父祖の家名を受け継ぐべく、これからは『李家(りのいえ)』と名乗るがよい」
流石に李の一文字では語呂が悪いと思ったのか、秀就の命によって元宥は李家の名字を称します。
寛永二1625年に前主・輝元が亡くなると出家して元宥(げんゆう。号は道斎)となり、寛永十四1637年には孫の勘兵衛(かんべゑ。後の李家規宥)を授かりました。
やがて家督を如宥(ゆきひろ)に譲り、隠居してからも何かと秀就の側へ呼ばれたそうで、よほど気に入られていたことが判りますが、藩医となっていた如宥としては、いつまでも老父が目を光らせていては、少しやり辛かったかも知れませんね。
そして正保四1647年11月27日、元宥は59歳で生涯に幕を下ろすのでした。ついに復讐の悲願は叶いませんでしたが、彼が日本の地で築き上げた信頼や実績は、亡き父の期待に応えて余りある孝行だったのではないでしょうか。
【完】
※参考文献:
岡部忠夫『萩藩諸家系譜(復刻版)』松野書店、1999年1月
朝鮮総督府『朝鮮人名辞書』第一書房、1977年8月
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