10年間の家出、アイヌとの親交…「北海道」の生みの親・松浦武四郎、その破天荒な人生 (2/3ページ)

Japaaan

武四郎はただ好奇心のままにさまよっていたわけではなく、ロシアの脅威や外国船の脅威から日本を守るためという思いもあり、未踏の地をふみしめ帰ってきてはその記録を綴っていたのです。

もちろんアイヌとの親交もあり、彼らの言語や文化も丹念に記録。そして8巻の大作にまとめて自費出版します。

その評判が幕府の耳に聞こえ、いよいよ幕府の「蝦夷地御用雇入」と雇用されるのです。


『石狩日誌』万延1 [1860] 序 松浦武四郎 著(国立国会図書館より)

「北海道」を命名

武四郎は41歳までに6回も蝦夷地の調査に行きました。6回目はアイヌの手引きでかなりの内地に入り込み、雪の十勝越えも果たします。

武四郎の凄いところは海岸線を歩く測量とは違い、数々の人を寄せ付けない標高の高い頂きに登りその様子と自然を調査したところです。それまでは霊山に上ることが多かった武四郎ですが、蝦夷地の石狩岳・摩周岳・西別岳など踏破した山々は探検の要素が強いものでした。

明治になり、大久保利通に推挙され役人となった武四郎は、蝦夷地の新しい名前を考案するよう命ぜられ、「北加伊道(北海道)」という名称を考案。「カイ」はアイヌ語で人間という意味で、北加伊道には「北の大地に住む人の国」というアイヌ民族への思いが込められていたのでした。

加伊を海に変更して北海道としたのは明治政府です。

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