天下一の傾奇者?それともただのうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【上】 (3/4ページ)
また、嫡男の放蕩ぶりを快く思わなかった母は亡父よろしくガミガミと叱りつけ、そのシーンは、まるで数十年前の吉法師と政秀を彷彿とさせたことでしょう。
関ヶ原合戦ではお留守番、手柄を立て損ねるさて、天下一の傾奇者を目指して好き放題していた孫十郎ですが、いつまでもそんな事ばかりしてはいられません。
15歳(慶長元1596年)ごろに元服したと見られる孫十郎は、信長の覇業を受け継いだ豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)に仕え、改名に際してその子・豊臣秀頼(ひでより)の名前から「頼」の一文字を拝領。
父・長益から受け継いだ「長」の一文字と組み合わせて織田頼長(よりなが)と称しました。この名前には織田家が秀頼に忠誠を誓い、末永く豊臣家(政権)を支えるよう願いが込められていたようです。
しかし、ほどなく秀吉が亡くなると豊臣政権の屋台骨が揺らぎ始め、その隙に乗じて天下を窺う徳川家康(とくがわ いえやす)と、その野望を阻止せんと対抗する石田三成(いしだ みつなり)の政争が激化。
関ヶ原の合戦。もしここに孫十郎がいたら、『無双』が実現したのだろうか(イメージ)。
これが後に「天下分け目」の関ヶ原合戦(慶長五1600年)につながるのですが、孫十郎はこの歴史の大舞台に出陣していないようです。