アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

大谷吉継の祟りに怯える秀秋(Wikipediaより)

秀秋の死は「酒」だった?

【前編】でも触れた通り、秀秋は豊臣家の跡取り候補として秀吉の養子となっていた。正確な年齢は不明だが、2歳の頃には秀吉の元にいたといわれている。

秀秋が元服した1589年頃になると、秀吉は天下統一に向けて着々とその歩みを進め、関東以西における目ぼしい反対勢力は北条氏のみとなっていた。秀吉の権力は絶大で、有力な後継候補であった秀秋の元にも多くの大名が関係性を深めようと集まったことが伺える。そこで必須となったのが「酒」だった。

戦国時代においては、若くして元服し酒を嗜むことは一般的で、秀秋も元服当時から酒の味を知っていたと考えられている。若年期から大量のアルコールを摂取した体は弱り、酒によって命を落とした武士も多かったとされる時代。秀秋も同様に、酒によって体を蝕まれていた可能性が高い

安土桃山時代の医師「曲直瀬道三 (まなせどうさん)」 の医学書「医学天正記」や「配剤録」には、秀秋の病状について「胸中煩問全不食」という記載が残っており、1601年には酒害による黄疸の症状が激しくなったとされている。

秀秋の死はその翌年の1602年だ。アルコールの過剰摂取によって何らかの病気を併発した結果の早世と考えるのが打倒だろう。

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