戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】 (3/5ページ)
しかし、義龍が別伝を庇い、朝廷と将軍家から「伝灯寺は天皇の勅願寺、紫衣勅許の寺として京都南禅寺と同格になす」という綸旨を引き出します。
本山である妙心寺もその立場をないがしろにされてしまったのです。
しかし、この直後義龍は33歳の若さで急死。後ろ盾を失った別伝は、美濃国から逃走しました。
斎藤義龍に真っ向から対峙した快川の気骨
快川紹喜の像が安置されている恵林寺の開山堂(写真:photo-ac)
「永禄別伝の乱」の最中、快川は、義龍に一歩も引くことなく渡り合っています。
国外退去した快川への帰国の命に対し、
「美濃の太守といえども義龍は一国の主にすぎない。それに対し、私たち僧侶は宇宙全体に連なる真の道を伝える師匠。
その広さと比べれば、一国など狭すぎて比較にならない。それ故に私たちは帰らない」
と、凛とした返書を送ったのです。
正義正論のためには「一国の太守など、なにするものぞ!」という快川の気骨がよく表れている名言として知られています。
この「永禄別伝の乱」で快川の名声は響き渡り、1561(永禄4)年、本山妙心寺に47世住持として就任、さらに恵林寺へ再住することとなったのです。