戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】 (2/5ページ)
1551(天文20)年に仁岫亡き後、美濃国大桑城下の南泉寺の住持となり、快川の活躍は顕著となっていきます。
1553(天文22)年、かねてから快川の名声を耳にしていた甲斐国主・武田信玄から恵林寺の住持として招かれ美濃国を離れました。
しかし4年後、美濃崇福寺の住持が途絶えたため、信玄の許しを得て美濃に戻り、崇福寺住持に就いたのです。
「永禄別伝の乱」でみせた卓越した手腕
当時、美濃国主は、斎藤道三から義龍に移っていました。
一色姓を名乗るため禅宗へ宗旨変えを行う必要があった義龍は、妙心寺の長老に相談し、別伝宗亀という僧を紹介されます。義龍は、別伝に帰依し、稲葉山城下に伝灯寺を建立しました。
別伝は義龍にとり入り、伝灯寺が美濃国の妙心寺派本山として「諸寺・諸僧の籍および妙心寺への手続きなどを一手に行うこと」を布告させます。
快川は、当初別伝の動きを傍観していましたが、この布告を知ると、尾張国の瑞泉寺へ退去します。
快川にならい妙心寺派の僧たちのほとんどが国外退去快川の動きをみた美濃妙心寺派の僧たちのほとんどが、同じく国外退去を敢行。「永禄別伝の乱」と呼ばれる、一大宗教紛争に発展してしまったのです。
1561(永禄4)年、快川らの訴えを聞いた本山の妙心寺から別伝の動きを不法と見なし、除籍するという回答が発せられました。