日本人と唯一神教との相性は?日本人と唯一神教との微妙な関係 (3/3ページ)

心に残る家族葬

浄土真宗も「在家仏教」を名乗り、僧侶と門徒の間に少なくとも建前上は格差はないとされている。イエズス会の宣教師 フランシスコ・カブラル(1533〜1609)やアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539〜1606)も、真宗を「ルターの宗派と似ている」と報告している。

■それでも浄土真宗とキリスト教(プロテスタント)は決定的に違う

こうしてみると形が異なるだけで、日本にもキリスト教(プロテスタント)に似ている唯一神教が根付いているようにみえる。しかし浄土真宗とキリスト教は決定的に違う。親鸞は「無上仏ともうすは かたちもなくまします」(末燈鈔)と説いた。真宗における阿弥陀仏とは、唯一神そのものではない。仏教における宇宙の摂理が、無知無学な衆生にわかりやすく仮の姿として顕現したとする姿が阿弥陀仏なのである。つまり方便としての仏であり、人間に直接語りかけたり、救いや罰を与えたりする実体としての神(GOD)でない。神道の神は実体がなく、仏教においては実体は存在しない「空」を説く。しかし救いを求める衆生には絶対的な存在がある方がよい。日本人には無かった頼れる存在を親鸞は仮の方便として用いたのである。唯一神そのものではないが、絶対的な存在への希求は日本人にもあったのである。

■見え隠れする唯一神

唯一神教は独善的ではあるが、時にはそのような強引さに惹かれることもある。何かに頼りたい、誰かに助けてもらいたいと願うのは人間に共通する弱さだ。大自然の脅威やどうにもならない過酷な運命を前に、唯一神は頼れる神様として必要なのかもしれない。死の淵に立たされた時、何も語らない神様より、「救ってあげよう」と行ってくださる神様の方がいいに決まっている。その一方で日本人の心性には、八百万の神々と仏教的な無常観が存在している。親鸞は人間が持つ共通の弱さと、日本人が育んできた心性をうまく調和したといえる。その教えが日本最大の宗教となっているのは興味深い。また新興宗教は教祖の唯一神的なカリスマ性に依っていることが多い。日本人と唯一神教の間には微妙な関係が見え隠れするのである。

■参考資料

■狭間芳樹(2011)「プロテスタンティズムと一向宗 : キリシタン文書に基づく比較研究試論」現代キリスト教思想研究会「アジア・キリスト教・多元性」9号

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